自然災害と諦観

東日本巨大地震東北地方太平洋沖地震M9.0)
阪神大震災の約1000倍に相当するエネルギーで激震が約5分も続いた後、相次ぐ余震、そして原子力発電所での炉心溶融
被曝被害も発生し、数十万人が避難生活を送るなか、東京でも計画停電が実施され、緊張の日々が続いています。


東日本巨大地震で被災された皆様、関係者の皆様には謹んでお見舞い申し上げます。



関東大震災を上回る、1900年以降の世界史上第4位に位置する巨大地震だった。
さらに原子力発電所損壊という、ひょっとすると今回の津波以上の被害が発生するかもしれない事故処理に、自衛隊や消防の方々が奮戦してくれている。
スマトラ沖地震同様、地震の直接的被害より津波による被害が圧倒的に大きい。
しかも、大きな地震を想定して、かなりの規模の防潮堤まで用意していたにも関わらず、あざ笑うかのごとく易々と津波は乗り越えて被害を拡げた。


自然災害の場合その恨み辛みをぶつける相手がいない、諦め切れないまま諦めしかないのだろう。
当事者でなければ理解できない痛みや苦しさを、軽々しく知ったかぶって語るほど図々しくは無いと思うが、被災者の方々に同情する事をご容赦願いたい。


この地震の1週間ほど前から、何故か自然の前での人間の無力さについて考えていた。
津波どころか、湖面に漂う僅か数センチメートルの波さえ、人間には止める力は無い。
子供の風車をユックリ回す、春の暖かい微風すら、人間には止める力は無い。
こんな当たり前の事を、当たり前と考えずに、人間は自然に対抗して来た、それを科学の進歩とよんでいた。
自然に対する抵抗とは全て科学の進歩なのだ。


50億歳の地球の気分を、3000年程度の統計で推し量り、今年は異常気象だと叫ぶことの愚かさに、人間は気がついていないのだろうか。


では私たち人間はこれからどの様に生きていけば良いのだろうか。
私には解らないが、思うところがある。
人間が生きて行く上で必要なのは「諦観」である。
それを「宗教」と置き換えても良いのかもしれない。
「諦観」とは、事の本質を理解し努力をすること。
「諦観」とは、「諦める」と言うことではない。
事の本質を理解し、人間も自然界の一部であるとの自覚の上で、謙虚に生きるべきではないだろうか。
自然に抵抗するための科学ではなく、自然に同調する方法を探り学び行動するのが、これからの科学の進歩と呼ぶべきではないだろうか。
一神教キリスト教イスラム教では絶対に成し得ない世界である。
あらゆる価値感に順応できるのは日本神道のみである。
八百万の神(無限大の価値観)を認める日本神道のみが、これからの世界を救う哲学になる、若しくは哲学の礎になると思う。


この様な一般的では無い事、悠長なことを、未曾有の被害が発生したこの時期に書き連ねることに不謹慎と思う方もいるのではないかと思うし、実際の被害に遭われた方々にとっては、何を馬鹿なことをと罵倒したくなる方もいるかもしれない。
しかしこの時期にだからこそ、私はこの様に考えた。

今回の震災から復興した時に、これを読み返してみたい。
敢えて推敲しないまま、掲載する。

今回の災害で亡くなられた方々のご冥福を祈ります。
また生き永らえた方々の、精神、経済の出来得る限り早い復興を祈ります。



<こんな事を考えるキッカケになった、母を介護する息子のメールです。>
お見舞いメールありがとうございます。
母は確実に体力低下しながらも、生き永らえております。
その為現在の介護施設から退去しなければならない様子です。
不謹慎ですが、死ぬ時期を逸した為に受ける現実の影響の大きさに悪戦苦闘しています。
母はクオリティのかなり低い生活ですので、
何のために生き続けなければならないのかと、哲学的な苦悩を伴いますし、
息子としてそんな苦悩することさえも不謹慎な気がしてなりません。
オランダでは許されていると聞いていますが、
尊厳死も大切ではないかと思いますが、
自分が該当者になったら、どう足掻くのでしょうか。
母も死にたいと口走っていますが、
自殺する体力も気力も無いとも言ってます。

災害で予期せぬ死を迎える方達もいれば、
片方では死を望んで待つ人もいる。
間違いなく神は存在しないということですね。
人間の存在の矮小さを思い知らされています。