野茂さん ご苦労様でした。

野球選手・野茂さんの引退が新聞に大きく報道されていました。
オリンピックやワールドカップ、野球、相撲、ゴルフ等、スポーツ観賞にまったく興味を持たない私にとっても、野茂さんは特別な人でした。


私が野茂さんを知ったのは外国でした。日本国内でもかなり騒がれて米国大リーグに進出した事すら知りませんでした。


当時私は、ソ連からロシアに変わって、やっと落ち着きだしたかなぁと思われ始めた頃のロシア沿海州の某市の国立大学の大学院で、日本語専攻の特別に選考された学生たちに、日本国刑法と民法を教えていました。
18名の院生の内女子15名という毎日がロシア人パブ状態の日々でした。


肩書きは英文契約書の直訳では准教授という立派なものでしたが、契約書の内容から言えば、パートタイムの臨時講師という契約でしたが、初めての海外での教師経験に燃えていました。


その頃は大学自治が不安定で、学長派と理事会派に何等かの確執があり、私の採用には学長がかなり無理をして薦めた事を後になって知りました。

長年奉職している正規の教授連中から見れば、月給換算で4倍以上の給与と特別宿舎、公用車利用の権利を得る外国人教師は決して歓迎されていませんでした。

特に私に冷たくあたったのが多分理事会派と思われる法学部教授でした。当時60歳前の彼は私の授業に通訳付で聴講に来ていましたが、質問等にかなりの悪意を持ち込んでいるかの雰囲気でした。
しかし思えば50年以上共産主義の中で生き学んできた彼には、心底自由主義諸国日本の法律は馴染めなかったのだと思います。ある意味彼の価値観が全て否定された様な心理状況だったのだと思います。


ある日のキャフェテラスでボケーとコーヒーを飲んでいた私に、件の教授が珍しく英語で話しかけてきました。彼は以前に何等かの事情で米国に短期留学を経験していて、その時にベースボールに嵌ったらしいのです。
スポーツに疎い私は野球が世界的なスポーツと思っていましたが、米国や日本と中南米の一部の国に特定されたスポーツである事をこの時に知りました。
明らかに私に有利に立てる話題を見つけた彼は結構興奮して話し続けました。
本来ならば私にとって無縁な話題での会話は、私自身が嫌気のさすところですが、彼の話題が野茂さんだったのです。
彼は野茂さんの事に詳しく、近鉄?時代の米国行きの確執から、米国に渡ってからの活躍まで実に詳しく自分のことのように嬉々と話すのです。
日本人である私より、日本人の有名人に詳しい事が嬉しかったようです。
その後は私もCNN等で野茂さん関連のニュースに気を留めるようになり、相変わらず学術論議には辛辣な彼も、それ以後は妙に私に近づいてきました。


市の商工会より、集会の基調講演の講師を依頼された私は、彼にこの話をしたところ、テーマを一緒に考えてくれました。
日本とロシアと沿海州の司法・行政手続の違いを実務に即して比較するもので、当然にロシアと沿海州側の情報は彼が協力してくれる事になりました。
この件は学長が妙に乗り気になり、別途有料で講演会を開く事に成り、沿海州法曹界の方や日本に進出を希望する企業や、単に日本に興味を持つ個人等の参加で結構大きな反響を得ましたが、実際の開催までには至らずじまいでした。

学術的にして高尚な講演は私にははなから無理な話で、授業でも好評だった、結婚詐欺にあわない方法、お金を借りて合法的に返済しない方法、等の興味を引く漫才みたいな頭フリから始めて、ソ連時代の法律の基礎となる考え方と、自由主義国日本の法律の基礎となる考え方の違いを講演する予定でした。
今となっては良い思いでです。
日本でも各種学校の教師しか経験の無かった私にとって、ロシアの国立大学の大学院で教師の経験を得た事は大きな喜びでした。


結局2年間にわたって務めましたが、法学部教授の彼との出会いが継続できた大きな理由でした。そのきっかけが野茂さんだったのです。


世界的な日本人の活躍は、同じ様に他国に進出する矮小な日本人には、神にも値する素晴らしい存在なのです。
ストイックであり劇的な結果も得た野茂さんの場合は、なお更でした。
その後も野茂さんの事は新聞やTVで関心を持ち続けました。
その後の体力の限界に挑戦し続け、決して順調な結果を得られなかったにも関わらず、今日まで頑張った野茂さんは、私より一回り以上若くても、中年オジサンの私のヒーローです。