普遍の真理 数学は哲学である。

絶対とは絶対存在しないもの、と思っていました。
いえいえ、ところが、ありました。
それは数学です。
以前友人との会話で、全世界共通の言語は数学である。
なんて話をしました。


この世の普遍の真実が数学なのです。


小生の通信簿の数学は5段階評価で下から2番目の2でした。
しかも恐ろしい事に、地域内では有名な進学校の国立大学理数系専攻クラス在籍だったのです。
その為に男女共学校なのにも関わらず、最も好奇心旺盛な高校生活3年間の内、2年間も男子のみの50名クラスという地獄を味わいました。


物理や化学、地学、医学等全ての学問では時間と共に新しい概念や発見、過去の偉大な業績や学説の否定と、それなりに変遷があり、芸術系には嗜好が介在しますが、唯一数学のみにはそれらがありません。正しく普遍なのです。


例えば、
三角形の内角の合計は180度です。
とんがった三角形でも、
平らな三角形でも、
一辺が10000Kmの三角形でも
0. 1mmの三角形でも、
アメリカの三角形でも
中国の三角形でも、
白亜紀ジュラ紀の三角形でも、
69世紀の三角形でも、


時間、場所、言語、大きさ、性別・国籍・肌の色・宗教あらゆる条件下でも三角形の内角の合計は180度なのです。


当然誰もが知っていることですが、改めて確認してみるとこれって凄い事だと思いませんか・・・。
この事に気付いた時チョット感動しました。
普遍の真理がこんなにも身近に存在していたのです。
数学こそが普遍の哲学なのです。


歴史的に見て我が日本国の数学のレベルはかなり高かった様です。
江戸の元禄期には世界に先駆けて微分積分や等比級数の概念が出来上がっていて、しかもそれが限られた特権階級の者ばかりではなく、一般庶民の好事家にも浸透していたのです。
華道や、歌道、茶道等の芸道のひとつとして、教養として数学が楽しみの道具にすらなっていたのです。


小人(しょうにん)無用の用を知らず。
実利尊重ばかりの現在で、実利に結び付かない事はまるで悪であるが如くの風潮です。
勉学も受験に有利であるか否かで諮られます。


戦国期に来日したフランシスコ・ザビエルの報告書に、日本国の武士は、力と教養のみで庶民から尊敬されていると驚いています。
同時の欧州の武士(騎士・貴族)は力と教養と財力が無いと尊敬されなかったからです。


日本人の美意識には本来実利を求めない、むしろ実利に疎いを持って好しとした形而上の美学が浸透していたのです。


小説家立原正秋は自分の小説に登場する主人公の人物像を表現する時に、剣道と数学に優れていると表すことを好んでいました。


50半ばにして数学の本質に目覚めた小生でした。
改めて数学の教科書を開いてみようかしらん。