K婆ちゃんと息子

80歳代半ばのK婆ちゃんには、28歳の時に産んだ息子がいました。
K婆ちゃんは私立の自立型養老院に入っています。
息子が会いに来てくれることが一番の楽しみでした。


K婆ちゃんは毎週土曜日はデイサービスを受けていましたので、
近所のデイサービスセンターに通っていました。
息子はいつも日曜日に来ていたのですが、その日に限って土曜日に来ました。
その日はちょうど旗日だったのです。
土曜日はデイサービスセンターに夕方までいるのを知っていましたので、
サービスセンターにK婆ちゃんを迎えに行きました。
それは初めてのことでした。


デイサービスセンターは公立の特別養護老人ホームの中にあり、K婆ちゃんの養老院とは違い、
介護度の高い方や認知症の爺ちゃん婆ちゃんも大勢います。
とても日当たりの良い明るい整った施設ではあるのですが、介護士さんに支えられた車椅子に乗って、
俯(うつむ)いたままの爺ちゃん婆ちゃんも大勢いて、
陽の光が明るいだけに反って空虚な雰囲気が漂っていました。
そんな中ではK婆ちゃんは目立って快活なお年寄りでした。


デイサービスセンターのロビーの中ほどに、一台の小型グランドピアノがありました。
当初はともかくも今は殆ど使われなくなったピアノでした。
K婆ちゃんの息子はジャズ・ピアニストでした。
息子が自慢のK婆ちゃんは、息子にピアノ演奏を促したのです。
いきなりですし、勝手に使って良いかも分からないので息子は躊躇ったのですが、
K婆ちゃんが強引にピアノの前に座らせました。


いきなり軽快なスイングジャズがロビー中に鳴り響きました。
一瞬何が起こったのか判断つかないかの様子で施設内がシーンとしましたが、
すぐに驚きと小さな歓声が沸きあがり、やがてそれは大きな歓声に変わっていきました。
杖を突いたり、歩行器に頼っている爺ちゃん婆ちゃんや、車椅子に乗った爺ちゃん婆ちゃん、
やがて介護士さんに連れられた爺ちゃん婆ちゃんまで、
こんなに沢山居たのかと思われるほどの爺ちゃん婆ちゃんがピアノの周りに集まってきました。


お客が多ければ多いほど益々乗ってしまうのがプロの演奏家です。
鍵盤を走る指はますます滑らかに快活になって、その演奏がまた爺ちゃん婆ちゃんにこだまして、
それはそれはまるで楽しさの相乗効果です。
よく見ると、さっきまで介護士さんが懸命に話し掛けても無反応だった爺ちゃん婆ちゃんまでが顔を起し、
演奏に聞き入っています。
膝掛けの下にある足がリズムを取っているのか、微かに膝掛けが動いています。
爺ちゃん婆ちゃんの眼は、遠い来し方を思い出し、
地球は自分を中心に回っていたと信じていた頃の輝きを放っていました。


K婆ちゃんの息子は三曲弾きました。リクエストは映画カサブランカと慕情のテーマ曲でした。
それはたった10数分のステージでしたが、
たくさんの爺ちゃん婆ちゃんが若かりし頃にタイムスリップした旅でもあったのです。
演奏が終わって割れんばかりの拍手が沸き起こりました。
それはお年寄りのそれとは信じられないほどの力強い拍手でした。


ピアノを離れたK婆ちゃんの息子の眼には、なぜかキラリと光るものがありました。
息子に手を引かれながら一緒に帰ったK婆ちゃんは、いつもより大きく強く自分の幸せを噛みしめました。